カイト・カフェ

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「子どもたちの社会は大人には閉じられているが実は広い」~人生の答え合わせ⑤

 子どもたちは弱い。
 だから大人たちは守ってやらなければならない。
 外敵から、そして自身の弱さからも。
 しかし弱さゆえの子ども社会の強さもある
 という話。
(写真:フォトAC)

【「弱き者よ、汝の名は女」】

 シェークスピアの「ハムレット」に出てくる有名なセリフです。ただし主人公が女性に優しかったという話ではなく、ハムレットの実の父親である先王が死んで2か月と経たないうちに、母親がその弟である新王と結婚したことを激しくなじっての言葉なのです。
『誘惑に対して何と「弱き者よ、汝の名は女」だ』
ということです。
 中学校の生徒指導の最前線にいるとき、私はこの言葉を何度も思い出しました。もちろん私の場合、弱き者の名は「女」ではなく「子ども」でしたがーー。

 子どもはどんな場合も弱者として扱われます。親に対しての「子ども」、学校の教師に対しての「子ども」、いずれの場合も大人が「強者」、子どもは「弱者」という図式でものは考えられます。そうした枠組み自体に文句を言いたい部分もあるのですが、それは別の機会に回して、今は「子どもたちは誘惑に対してあまりにも『弱き者』だ」というお話しします。
 そのために何度ほぞを噛んだことか――そう考えるとハムレットの嘆きもよく分かるのです。

 髪を染めたい、化粧をしたい、ピアスの穴を開けてみたい、タバコを吸ってみたい、短ラン・ボンタンで街を伸して歩きたい、女の子の部屋に泊まってみたい、ゲームセンターで遊んでみたい、そのための資金を簡単に手に入れたい――。もちろんそうした誘惑にびくともしない、というよりは最初から誘惑にならない子の方が圧倒的に多いのですが、社会にはびこる誘惑に気持ちの動く子は本当に弱いのです。
 そういう子たちは家庭においても常に誘惑にかられるので、なかなか学習が進みません。進まないから遅れる、遅れるとさらに誘惑にかられやすくなるという悪循環です。

【人情、紙のごとし。良い子はどうでもよい子】

 もちろんそういう子たちを強い子に育てるのも教師の仕事ですし、生徒指導はまさに誘惑に打ち勝つトレーニングの場ですから文句をいう筋合いはないのですが、私が本当に情けなく思い、エネルギーが吸い取られるように感じたのは、誘惑に弱い子どもたちは、生徒指導で教師と対決しなくてはならない場面でもまったく弱く、簡単に白旗を上げ、自分を守るために平気でベラベラとしゃべって、平気で仲間を売ったりもするのです。
「人情、紙のごとし」それが一番やりきれないところでした。仲間さえ守れない子になっているーー。
 
 しかしもちろん骨のある子はいるもので、そうした子たちは頑として口を割らないのでいつの間にか一番の“ワル”に祭り上げられていたりします。指導する側からすると簡単にしゃべってくれないのでほんとうに面倒くさい子たちですが、私は彼らが好きでした。他の子に比べたらつき合う時間もとんでもなく長かったりします。
 
 こうした話は三十数年前の朝の会でも話したらしく、先日私の家を訪ねてくれた三人のうちの一人も覚えていてくれました。
「ワルい子たちはなあ、『先生はいい子や勉強のできる子ばかり大切にする』とか平気で言うけど、冗談じゃあない。教師がかける時間だけを考えたって、ワルい子はいい子の何十倍も使ってもらっているんだから」
と、そんな話をしたようです。

 教師がしばしば口にする「いい子は、どうでもいい子」は、とても難しい表現ですが、要するに「ほんとうはもっと手をかけてやるべき『いい子』たちが捨て置かれている(捨て置かざるをえなくなっている)状況」を悲しみ、自嘲する言葉なのです。情けなくも切ない話ですが、「ワルい子」に手を取られてどうしようもないのです。

 私が担任した中でもっとも手がかかり時間もかかった一番の“ワル”、別な言い方をすれば私の出会った生徒の中で一番の“男前”は、先日訊ねて来てくれた子たちを卒業させた翌年に担任した子でした。その“男前”の一番の特徴は、男ではなく女の子だったことです。とにかく普通の男の子に比べると、腹は座っていました。

【子どもたちの社会は大人に閉じられているが広い】

 話を「腹の座っている子」から「座っていない子」の方に戻しますが、ペラペラしゃべって仲間を平気で売り渡す子たちの話を聞いていてひとつ驚くのは、彼らのネットワークの意外な広さです。スマホもインターネットもなく、固定電話も一家に一台で家族に内緒で情報のやり取りをするのが難しい時代に、自分の周辺ばかりでなく友だちの間で起こっていることについても、互いに実に詳しいのです。
 しかもそれは“仲間”の枠を越えて、例えば「◯◯が△△デパートで万引きをしてきた」といった話が、ワル仲間だけでなく最も縁遠い「よい子」グループにまで届いているのです。しかも“よい子”たちも、普通は大人社会に情報を伝えようとはしません。よほどのことでない限り彼らは黙っています。

 1994年(平成16年)、愛知県の西尾市でひとりの中学生がいじめを苦に自殺しました。いわゆる「愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件」です。このとき学校は自殺した生徒の異常を察知していたにもかかわらず「いじめ」を見逃してしまい、社会的にずいぶん叩かれ、校長らは処分を受けました。そのころの学校バッシングはすさまじく、私も当時、いじめ問題を議論する集会のひとつに出ましたが、とてもではありませんが自分が教師であることを明かせる雰囲気ではありませんでした。

 この事件でいじめを行った中心人物は4人、その周辺にいた7人と合わせて11人が事実を知っていました。しかし驚いたことに、その他の子どもたちの大部分は被害者と加害者を同じグループの仲間だと認識しており、内部で起こっていることについては、誰も知らなかったのです。
 子どもたちの社会で起こる出来事なのに子どもたち自身が知らない。そうした状況で教師がいじめの事実を掴むのは、まず不可能なことだと私は思っていました。
(この稿、続く)